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2005/04/30

ロックギタリスト、NASA有人探査の諮問委員に

うわ!本気で驚いてしまった!

この記事にある「ジェフ・バクスターさん」って、私が20年ぐらい前、かなり好きだったギタリストなんですよね。
その彼が「月や火星への有人探査のための有識者諮問委員会メンバーに選ばれた」そうで…。

しかも彼は「独学で軍事技術や大量破壊兵器の専門知識を習得」「軍事アナリストに転向」「4年前に国防総省の軍事顧問にも就任」。

うわ〜!全く知りませんでした。

なんつーか、結構ショックでかいです。
嬉しいんだか、悲しいんだか、よく分かりません。(^_^;;

2005/04/16

「自衛隊に入ろう」のフォーク歌手、高田渡さん死去
おくやみ 高田渡氏=フォーク歌手
人を愛し酒場を愛し愛され…心不全死去、高田渡さん

反戦と、持たぬ者の悲哀を綴り続けたフォーク歌手、死す…。

といった書き方が失礼になるのかどうか、ちょっと微妙な気もしますが、私の実感ということでご容赦を。

70年反戦フォークソングの代表とも言える、高田渡さんが亡くなったそうです。
私はこの方の歌を、そう多くは知りません。
1968年から1970年前半あたりが、彼の歌が最も支持された時期ですが、私は当時まだ小学校から中学校ですからね。

反戦の中で盛り上がったフォークブームが、次第に学生達の生活感や恋愛を歌うようになり、音楽シーンは次第にマスメディアの中に、産業として組み込まれていきました。
私が懐かしいと感じる歌は、そうして産業化されてからのものですし、高田渡さんの歌は、そうした産業化の中では、既に阻害されてきていたと思います。

では、私にとって、どうでもいい人なのかというと、どうもそうではないんですね。
この10年ぐらいの間に、彼の曲を何度か聴いてるのですが、それが実に良かった。
心に染み入ってくるんです。
70年代の人が歌うと、どうしても懐メロっぽくなるもんですが、彼の歌はそうではない。現役なんです。
持たぬ者の悲哀や、時代の流れから身を引いた人の寂しさ。手のひらに乗っかる木漏れ日のような、暖かくて、懐かしくて、そしてどこか侘しい。そんな景色が歌に紡がれていく様子は、彼が現役の詩人であることを納得させてくれるものでした。
ヒットチャートには絶対に出てこない歌でしょうが、それは間違い無く、本物だけが持つ説得力を持っている、と思いました。

「反戦の士」というような肩書きは、彼にとってあまり幸福なことではなかったのかもしれません。
代表曲と言えば、どうしても「自衛隊に入ろう」のような反戦歌がまず出てきてしまう。
確かにそれも高田渡さんですが、彼の本当の本領は、風刺ではなく、人の寂しさや暖かさを描くことであったと思います。

見た目の風貌は、もっと高齢な印象でしたが、まだ56歳だったのですね。
まだまだ活躍してほしい人でした。
合掌。

p.s.
18日、zakzakのリンクを追加しました。
大手新聞と違い、酒と人、そして吉祥寺を愛した人、という切り口で高田渡さんの訃報をまとめています。
記者の愛情が感じられる記事だと思いました。

2005/04/03

見た目なんか悪くても…熟したバナナは免疫力UP

熟したバナナで風邪や花粉症も軽くなる?

花粉症まで軽減してくれるかどうかは分かりませんが、「バナナが果物の中でも特に免疫力を高める効果が高い」「日数がたったバナナほど白血球を増やす効果があり、10日目のバナナは、初日のバナナより白血球を5倍多くしていた」とのこと。

個人的には、熟して黒くなったバナナって、あまり好きじゃないんですが、薬効を考えるなら、お店で買ったあと、一週間程度寝かせて食べるほうが効果的のようです。

免疫力が上がるってことは、風邪を引きにくくなったり、アレルギー症状が出にくくなることですから、花粉症も多少は抑えてくれるのかもしれません。
バナナは安いので、試してみる価値はありそうです。

2005/04/01

米女性の「尊厳死」をバチカンが非難
「尊厳死」の米女性死亡 植物状態15年、栄養断たれる

15年にわたる植物状態の彼女は、さらに植物状態を続けるべきだったのか…。

26歳で植物状態に陥ったまま、15年間意識を取り戻すことなく横たわったままであった女性が、夫の判断で、生命維持装置を外され、死亡しました。
もちろん、医師が立ち合ったうえでの話です。
しかし、彼女の両親は、生命維持装置を外すことに、最後まで反対でした。
実はこの7年間、夫は死を受け入れる方針で、両親は延命の方針で、アメリカ・フロリダ州の法廷で争っていました。
裁判所の判断は、生命維持の停止でした。

目覚める確証のないまま、このまま老衰で亡くなるまで植物状態を続けるべきかと問われれば、私なら最終的に死を受け入れるでしょう。
なかなか決断できずに、数年は延命させるかもしれませんが、10年は私には明らかに長過ぎます。
もちろん、植物状態から目覚めることが一番良い解決であることは確かですし、可能な限り生かしておくべきだと言う意見も多く、特にカトリックの立場からの批判は強いようです。

北村薫さんの「スキップ」という小説があります。
17歳の少女が、ある日突然、42歳になってしまう話です。
正確に言えば、42歳のある日、20年分の記憶を失ってしまう話です。
結婚し、娘を産み育て、教師として生活してきた20年分の記憶を全て失い、身体は42歳でも、自我や記憶は17歳当時のもの…。

私はこの小説の設定を、とても残酷なものと感じました。
北村薫さんの小説は好きなものも多いのですが、この設定の残酷さに、最後まで後味の悪さを感じました。
もちろん作家は、残酷さを見せたかったわけではなく、その辛い状況を乗り越えていく姿を描こうとしているのです。
けれど、私には辛い小説でした。

今回の事件は小説とは異なります。
しかし、今回亡くなった彼女が仮に今、意識を取り戻したとしても、41歳の身体に26歳の心が収まっている状況となるわけです。
意識の回復がもっと先だとしたら、そのギャップはますますひらいていきます。

今「尊厳死」に反対している人は、老衰で死ぬまで植物状態を続けるべきだと考えているのでしょうか?
だとしたら、例えば極端な話、90歳で意識が回復する可能性だってあるでしょうが、これは果たして「意識が回復して良かった」と喜ぶべき状態なのでしょうか?
私にはそうは思えないのです。

医学はどんどん進歩しています。
数年前までなら確実に死亡していた患者でも、今なら生命維持装置で延命できる可能性があります。
延命技術の進歩によって、かつてはSFの中でしかありえなかった、「脳がなくても身体だけが生きて(生かされて)いる状態」や「脳だけが(培養液に漬けられた状態で)生きている状態」さえも可能になりつつあります。
けれど、延命装置は無制限に使われるべきではないと思います。
どこで線を引くべきかは難しい判断ですし、異論もたくさんあるでしょう。
しかし、延命は必ずしも人を幸福にしないでしょう。

長期にわたる植物状態を、もっと延長すべきか、打ち切るべきか。
どっちに決めても、それで正しかったのかなんて判断しようがないと思います。
しかし、せめて当事者以外の人は、その決断を非難しないでほしいと、私は思うのです。

非難することは易しいでしょうが、当事者が安易に結論を出したはずもありません。
葛藤の中でやっと出した結論のはずです。
第三者が責めることでも、決めることでもないはずです。

21世紀の公園で