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2008/11/16

【神田高校問題】「校長先生を戻して」「服装で合否、正しい」保護者や生徒が嘆願書

教育現場は生徒をどう選別すべきなのか。

所詮「入試」は選別です。欲しい人材と欲しくない人材に分けること。
だとしたら、その基準は「勉強ができるか」だけである必要はないはずです。

ユニークな人材を集めるという基準もあっていいし、協調性の高そうな人材を集めるという基準でもいい。
お金が無いと入れない学校もあれば、誰でも受け入れるという学校も…きっとあるのだと思いたい。

そしてそうした基準が公開されていなくても、非公開も、それがその学校の方針であれば、それはそれで構わないはず。
そうした「多様な学校」があるべきだと私は思います。

しかし公立の学校では「公平な基準」が求められてしまう。
そこに問題の難しさがあるのでしょう。

ただ、「教師は全ての生徒を救い上げるべき」というのは理想です。
現実には、どうしても限界がある。
教師の指導のキャパシティーを超えれば、どうしたって学校は荒れるでしょう。
荒れを減らすためには必要な処置だったのでしょう。

嘆願書がたくさん集まっていることが、全てを如実に語っているように思います。

2008/11/13

東京裁判60年―歴史から目をそらすまい

田母神論文問題で日本が揺れているが…。

朝日読売日経の社説では、論文は稚拙であり間違っており、田母神氏を弾劾するのは当たり前となっている。
産経新聞はむしろ田母神氏を援護している。
Yahoo!のアンケートではアンケート参加者の約6割が田母神氏援護に回っている。
一方政治の場では、民主党は追及の手を緩める気は無いようだが、自民党内では田母神氏援護の声もあるらしい。

この極端な違いは何故生じるのかといえば、要するに田母神氏の論文の内容が(仮に稚拙であろうとも)正当である可能性もあり、しかし政治的には不味いものだからだ。

その政治的な不味さは私も分かるし、田母神氏も一応納得しているようなので、彼の処遇に関してはここでは何も書く気は無い。

歴史の解釈はその立場によって変わる。
第二次世界大戦での日本の立場をどう見るのか、東京裁判の内容を是とするのか非とするのか。

それによって見解が全く変わるのは、本来当たり前のことなのだが、政治的には現在「日本は第二次世界大戦では悪者でした」「東京裁判の内容は全て受け入れています」という片方の意見しか認められていない。

たとえば今日の朝日新聞の社説には、こんなことが書かれている。

『まず確認すべきことは、東京裁判が極めて複雑な問題だという冷厳な事実である。「勝者の裁き」か「文明の裁き」かという二元論で、万人の納得のいく解釈はできない。』

そして『東京裁判に問題があるのは事実である』としながら『この裁判の意義』を『裁判を通して戦争に至る道が検証され、指導者の責任を問うた。そのことで、戦後日本社会は過去を清算し、次に進むことができた』『独立回復に際してこの裁判を受け入れたことで、国際社会への復帰を果たした』と説き、『こうした両面をそのまま受け入れる必要がある』とまとめる。

そこまではいい。

しかし、その後の論はおかしい。

『裁判が十全でなかったからといって、日本がアジア諸国に対する侵略を重ね、最後は米国との無謀な戦争に突入し、膨大な人命を失わせた事実が消えるものではないからだ。日本に罪や責任がなかったということにはならない』

『悪いのは全部外国だ。そう言いつのるだけでは、国際社会で尊敬される日本がどうして築けるだろうか』

確かに私たちは学生のころ、教科書で「日本が侵略した」「日本が無謀な戦争をしかけた」と習ったが、その解釈が正しいのかどうか、今では大いに疑問に感じている。

「侵略した」のは事実だろう。
「無謀な戦争」だったことも事実と言っていいだろう。
「罪」や「責任」もあるだろう。

しかし、その「侵略」は「アジア開放」という目的でもあり、白人によるアジアの植民地化を食い止めるための必死の行動でもあった。

戦後に公開された開戦当時のアメリカの資料により、戦争をしかけ、追い込んだのはむしろアメリカであり、日本は開戦直前まで戦争回避のための交渉に必死だったことも分かっている。

日本は空襲や原爆によって大勢の民間人が亡くなったが、民間人殺害は当時の戦争のルールでも禁止されていた。
なのに、その虐殺を未だアメリカは必要だったと言い、謝罪も保障も行っていない。

植民地化政策は、当時ヨーロッパでもアメリカでも当たり前の政策だった。
未だに植民地を手放していない国だっていくつもあるのだ。
なのに、日本がやった侵略は罰せられ、戦勝国の侵略は未だに一部続いている。

「悪いのは全て外国だ」と言いたいわけではない。
しかし「日本だけが責められるべき」とは思えない。
日本だけが責められ罰せられている状況は、日本が差別され、いじめに遭っているのも同然ではないのか?
その状況は東京裁判から始まり、未だに続いているのだ。

田母神氏の論は、その差別を是正したいところから始まっていると思う。

日本の罪を外国に転化するためではなく、日本が差別されスケープゴートになっていることに怒りを感じているのだと思う。

今の日本は平和と言っていい。
日本に対して好意的な国は少なくない。
しかし「日本は未だに差別されている」という事実に目をつぶるべきではない。

たとえば、国連予算の2割を負担しているにも関わらず、未だ常任理事国ではないのは、結局は敗戦国だったための差別だろう。

戦後処理はとっくの昔に終わり、日本は侵略した国への保障も全て済ませているはずなのに、未だに新たな保障や謝罪を要求され続けている。
こうした一方的な要求が未だ出てくるのは、東京裁判の歪みのせいではないのか?

朝日の社説は、そうした「日本差別」「東京裁判の歪み」を無視したところから出てきているように思えて仕方が無い。
だとしたら、歴史から目をそらしているのは、むしろ朝日や読売ではないのだろうか?

田母神氏は、軍人として間違った行動をしたのかもしれないが、それはあえて世間に問いたくてやった、意図的な行動なのではないかという気がしてならない。

21世紀の公園で